Wiki-Daigoです。
『続日本紀』と『日本後紀』とを調べると、どちらが正しかったかが分かります。
791(延暦10)年までことは『続日本紀』、792(延暦11)年からのことは『日本後紀』にのっています 。791年の弟麻呂が大使で、田村麻呂は副使であった、ことはすでに紹介しましたし、あなたも『続日本 紀』の征夷大使と副使は認めましたね。
794(延暦13)年と795(延暦14)年のことは、『日本後紀』にのっているのですが、私は持っていない ので図書館で調べようと思っています。あなたも調べてみてください。
あとは『日本後紀』を調べれば、794年と795年に征夷大将軍は誰であったか分かります。
----- Original Message ----- 送信者: Kemperor1k001@jcom.home.ne.jp 宛先: wikija-l@lists.wikimedia.org 日付:Wednesday, September, 10, 2008, 09:58 PM 件名: Re: [WikiJA-l] (征夷大将軍)
私は、大伴弟麻呂が征夷大将軍であったという風説を今まで耳にした事がない。 また、数研出版が間違いで、歴史学研究会が正しいという根拠はない。 794年及び795年を含む791年から795年まで弟麻呂は、征夷大使と書かれている。 これは君の主張と矛盾している。 征夷大将軍は太政大臣と同様に則闕の官であり、適任者がいなければ空席となる。 坂上田村麻呂の死後、源頼朝が任命されるまで約400年間空席であったことからも田村麻呂のため
に創設された役職とさえ言える。因みに源義仲は征東大将軍である。
即ち、桓武天皇は、唯一の適任者である田村麻呂が四十歳になるのを待って初めて任命したものであ
る。
ウィキペディアの坂上氏及び征夷大将軍の項にも坂上田村麻呂が史上初の征夷大将軍と記載されてい
る。
坂上田村麻呂の項目に記載されている弟麻呂が初代であるという記述の方が虚偽であると言わざるを
得ない。
更に、坂上田村麻呂を含む歴代将軍総てが従二位(総理大臣相当)以上の上級貴族であるのに対し、
弟麻呂のみが遥か格下である従三位(次官級)の中級貴族となり、このような小物が初代将軍となるに は、著しく均衡を欠き、甚だ不相応である。弟麻呂を初代将軍と認めるには、相当の無理がある。
Kemperor1
----- Original Message ----- From: wiki-daigo@mail.goo.ne.jp To: wikija-l@lists.wikimedia.org Sent: Wednesday, September 10, 2008 11:40 AM Subject: Re: [WikiJA-l] (無題)
Wiki-Daigoです。
題名を「無題」と変えているので気づきませんでした。
私は、歴史学研究会編の年表と『続日本紀』から引用していますのでまず間違いない思います。 大伴弟麻呂は、794(延暦13)年、795(延暦14)年には征夷大将軍であったのです。
坂上田村麻呂は、797(延暦16)になって征夷大将軍になったのです。初代の征夷大将軍ではないと
思い
ます。
『日本後紀』の794年、795年の記述も調べてみます。
ところで >これらの記述は、Wiki-Daigoの主張と矛盾している。 とは、どんな記述のことを指摘しているのですか。
----- Original Message ----- 送信者: SKGMk001@jcom.home.ne.jp 宛先: wikija-l@lists.wikimedia.org 日付:Tuesday, September, 09, 2008, 09:38 PM 件名: Re: [WikiJA-l] (無題)
どうも。
私がよく使うのは、平成10年発行の数研出版のチャート式新日本史だが、 75ページに弟麻呂は791年から795年まで征夷大使とあり、田村麻呂が中心となって457
人
を成敗するなど、
可也の成果を挙げたとある。これらの記述は、Wiki-Daigoの主張と矛盾している。
小欄の年表には、征夷大将軍坂上田村麻呂の記述だけがあり、弟麻呂については全く書かれていな
い
。
また、Wikipediaの坂上氏及び征夷大将軍の説明にも「史上初の(初代)征夷大将軍坂上田村麻呂
」と
書かれている。
Wiki-Daigoの主張は、これらの記述とも明らかに矛盾している。 君の主張は、可笑しいのではないか。