[WikiJA-l] Pugnari氏へ

Ken OKABE kenokabe @ gmail.com
2006年 10月 1日 (日) 23:21:32 UTC


FXSTです。

http://ja.wikipedia.org/wiki/Wikipedia%E2%80%90%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E6%8A%95%E7%A8%BF%E3%83%96%E3%83%AD%E3%83%83%E3%82%AF%E3%81%AE%E6%96%B9%E9%87%9D/%E6%94%B9%E5%AE%9A%E6%A1%88/Anonymous000

>ウィキペディアは民主主義のコミュニティではありません。
ジンボ・ウェールズという「優しい独裁者」が君臨する専制君主制のコミュニティです。
ウィキペディアには民主主義の運営に必要となる様々なルール、設備、技術が備わっていません。
ウィキペディア上で弁明権を保証できる「技術的な支援」も「整備されたルール」もありません。
どうかそのあたりをご理解ください。
よって日本国憲法などを持ち出すのは、論点ずらしとみなされ得ます。
Tietew 2006年10月1日 (日) 13:01 (UTC)

>ところで、Tietewさんの発言は、これだけではその真意がわかりかねますが、
コミュニティの根幹にかかわるような問題をはらんでいると見做され得ると思います。
ウィキペディアは民主主義コミュニティーでない、のはそうでしょうが、
「専制君主制」という語を持ち出した意図は、
ある種の民主性、公平性を指向しないコミュニティであるという公式的な表明なのでしょうか。
そうであるとすれば、「意見が衝突したらまずノートページで議論して合意しましょう」
とかいうガイドラインは何のためのものだろうと感じます。
「誰でも編集に参加できる」ことによってコミュニティを活発にし、
結果的に記事の量と質を向上させるというウィキペディアのアイデアは、
ルールを守る限りにおいて、あらゆる編集者がある程度公正に扱われる事が前提であり、
そうでないとすれば知識の範囲や傾向の偏った一部の執筆者によって、
個々の記事は「中立的」であり「検証可能」ではあったとしても、
全体から見れば偏った百科事典になってしまうのではないでしょうか。
--Pugnari 2006年10月1日 (日) 13:57 (UTC)

>    お言葉を返すようですが、「専制君主制」とは通常「絶対君主制」とほぼ同義で、
君主の政治的権限が制限されないことをいうので、
「立憲君主制」などとは違い、本質的に、およそ「民主的」ではないと思います。
また、「公式的な表明」というのはTietewさんの信条の公式的な表明かと問うているのです。
Tietewさんが1ユーザーに過ぎないとは言いますが、
ウィキペディアのコミュニティのなかで事実上、非常に重要な登場人物で、
発言にそれなりの影響力があることに、彼(彼女)自身も、われわれも留意せざるを得ないし、
留意すべきです。
    それは措くとしても、ウィキペディアがジミー・ウエールズのアイデアに基づき、
それを守って運営されている事はもちろん承知しています。
その上で、Tietew氏の発言は、「非常事態」でないときに、
ユーザーが公正に扱われるよう決まりを工夫する議論をジミー・ウエールズは
認めていないという意味なのでしょうか?
ウィキペディアの思想上むしろ、「特別な事」以外は可能な範囲内で公正かつ
民主的に物事を進める事が推奨されていると思っていました。
Anonymous000さんの提案もこの部分に関する事です。考え違いがあったら指摘してください。
--Pugnari 2006年10月1日 (日) 15:59 (UTC)

面白いので、Pugunari氏もようやくこの辺りが根本の病巣にあると気がつかれたようだ。
結論からいうと、どうしようもない。こういう「オレオレウィキペディア」を啓蒙思想前時代発想で
つくったジミーウェイルズのせいなんである。

「優しい独裁者」というような欺瞞に満ちた言葉が正当化されている時点で
前時代的コミュニティである。

100歩譲って、その独裁者がほんとうにやさしくて完璧な人間であったとしても、
ジンボの罪はそういう態度とやさしいので結果OK!みたいなことを見せる事で、
その下のぜんぜん完璧でない人たちに、結果OKなんだからOKだ。独裁者万歳と、
その人らの優しくもなんともない裁量判断にお墨つきを与え、
推奨してしまっているということである。

この構造的な病理はこの言葉を喜び勇んでもちだした管理者が
ほかならぬTIETEW氏ということからも容易の読みとれるのではないだろうか?

http://fxsystemtrader.cocolog-nifty.com/blog/2006/09/02_c2c3.html
ブログのシリーズのしょっぱなに私がこのジミーウェールズの独裁者嗜好をまず根本として
とりあげたのは、pugnari氏も今になって気がついたように、
コミュニティの根本に関わる問題であり、どうせこの議論は最終的にここに戻ってくるからである。

自分の都合のいい統治ツールの暗記は得意な管理者が多いので、いずれこれも出るとは思っていたが、
ウィキペディアは民主主義の実験場ではない、とかいうウィキペディアは何でないか?
の受け売りだろう。もうこういう聖書の解釈論争をするのは馬鹿らしいのであるが、
ウィキペディアは民主主義ではないとは書かれていないし、創始者たちが
この点もっと明確にせずに、自分のコントロールを温存する方向に
ルールのニュアンスを持っていった歪が、こういうところに弊害として現れている。

「ある種の民主性、公平性を指向しないコミュニティである」
その通りである。
「意見が衝突したらまずノートページで議論して合意しましょう」
飾りであるに過ぎないし、現実に、登場人物の管理者は一切説明責任も果たさないし、
こういう「方針」なぞまるで尊重していないし、頭の隅にもないだろうと思う。

いくら小手先でウィキペディアでは話し合え合意しろ、と書いていても、
コントロールフリークはその根元にあるこういう創始者の信条をけして見逃さないし、
都合が良いのでスポンジのように吸収する。

英語版でもこれは大きな問題になっているが、いまのところ革命は許されていない。
いくら、小手先でウィキペディアは合意を推奨するだとか、
管理者の存在は大きくならず一般利用者の合意に
基づくボタン押し係であるべきだとかそういう思想をちらつかせても、根本の追放のルールに
自分個人の名前を埋め込んだり、存在感を思いっきり誇示した時点で絵に描いた餅になっている。
自己顕示欲の強い独裁者が制裁をちらつかせながら、君たちは好きにやっていいのだよ、
と言っても、まるで説得力がないし、実際TIETEW、Michey氏はこの彼の態度の影響を
無意識に強く受けているものだと思われる。

>ウィキペディアの支配者が Jimmy Wales および財団であるということは普段、
表に現れませんし、意識することはありません。特別なことがない限り、
また中立的な観点などを廃止しようとしない限り、我々は自治を謳歌できます。
しかし非常事態になれば、Jimmy Walesや財団から強制的な命令がでることがあるでしょう。
政治の本質が権力であることは政治学の常識ですが、
その権力がむき出しになるのは戦争やクーデターなどの非常事態のときであるのと同じように。
--Michey 2006年10月1日 (日) 14:58 (UTC)

以上は非常に好意的に「中立的な観点」とかに絞っているが、実はそんなレベルでなく、
まったく説明のないリバートやら恣意的なブロックやら記事の削除やら、
「俺って民主主義って信用していないの」@どっかのブログという管理者やら、
そういう行動、人はポンポン生まれる土壌になっている。

Anonymous000、Pugnari氏が、現代的なコミュニティとは、
民主主義プロセスを重視すべきという、啓蒙思想以降の人物であるのにたいして、
ジンボのメンタリティを引き継ぐ、一部の管理者、つまり啓蒙思想以前の前時代的な人々と
議論の根本がかみあわないのは当たり前である。

Pugnari氏は以前私が三大編集方針に異議をとなえているので、コミュニティの負荷が
大きいと誤解されていたが、今ご自分が直面しているコミュニティの根本の部分の問題というのが、
まさに私が問題としていた部分で、はっきりいってかなりどうしようもない問題であるので、
有る程度の部分は、切り捨てるというか、プラグマティクに処理していかないと、
泥沼にはまると忠告申し上げたい。話が通じる相手と通じない相手がいるのであるし、
不幸なことに創始者のお墨つきみたいなものがあるので、かなり状況が悪いと思う。



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